敬愛なるベートーヴェン
監督:アニエスカ・ホランド
出演:エド・ハリス/ダイアン・クルーガー/マシュー・グード
2006年/米・独/104分/古田由紀子(監修:平野昭/アドバイザー:佐渡裕)/☆☆
批評 砕け散る
写符師のアンナが、ベートーヴェンの看取る所から、物語は幕を開ける。
ベートーヴェンでアンナという名前で思い出されるのは、アンナ・マリー・エルデーディだが、この映画に出てくるのは別人。
あくまでも架空の物語なのだ。
「架空の物語で、冒頭からの回想形式で、偉大な作曲家の話」
というと、映画史に残る大傑作ミロス・フォアマン「アマデウス」を思い出すが、前年ながら、その足元にも及ばない完成度だ。
もっとも悲しむべきは、やはりその構成だろう。
冒頭の、ベートーヴェン死去のシーンに始まる物語は、最後にその場所に戻ってこない。
カットバック構成の映画で、開始時点に戻らないのが卑怯だというのではない、冒頭でアンナは、死ぬ間際のベートーヴェンに向かって、大フーガを誉めるのだ。
ところが映画本編の、最後間際。
大フーガの初演の後。アンナは、当時の世間の評価と同じように、大フーガを「(私はこの曲に)あなたとは異なる評価をする」と言っている。
この矛盾の正体は、果たしてどこに?
中盤で、ベートーヴェンが溺愛した甥のカールが出てくるが、このエピソードは第九の初演とともに忘れ去られる。
アンナは当初修道院に住んでいるが、その修道院との話 (シスターが「サリエリに教えを受け、オペラ座で歌うのが夢だった」と語るシーンはニヤリとさせられる。と、同時に「アマデウス」を思い出してしまうのは、悲しい映画ファンの性か) も、やっぱり第九初演と共に忘却の
他にも、アンナとその恋人との話等複数の話が、第九の初演、大フーガの初演という、作中の二つの転換と共に、脚本の藻屑となって行ってしまう。
その上、特に大フーガの初演に関しては、作中でその役割を果たしきれているとは思えないありさまだ。
中途半端な脚本と、中途半端な演出の上では、エド・ハリスの熱演も、作品を救う手立てにはならなかった。